トヨタ物語 8 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.391 ■□■
― ISOマネジメントシステムのテクノファ ―
― つなげるツボ動画版はじめました ―
*** トヨタ物語 8 ***
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「トヨタ物語」も今回で8話になります。トヨタ創業期の話と
近年の品質不祥事の話には大きなギャップがありますが、この
違いはどこから来るのか、考えさせられます。下記の記述は
1970年頃に私が聞いた大野耐一氏(当時副社長)の講演記録か
らです。

■■ 大局観と詰め ■■
佐吉翁も喜一郎氏も、国際感覚というか、世界を見る目ではだれ
よりも優れていたと思う。先見性に秀でていた。終始、生産現場
に立ちつくしていた点でも共通している。ものごとを常にリアル
に、クールに、そして客観的に見つめ続けたのである。物との対
決によって対象物の本質に迫ったのである。
特に生産現場に立つと、重箱の隅を揚枝でほじくることをしがち
だが、佐吉翁も喜一郎氏もそこは違っていた。
全体像を描くというか、大局観というか、いつも豊かなデザイン
を頭に描いていたように思われる。
それでいて、詰めも確かであった。
佐吉翁の発明生活は原口晃氏の「佐吉翁に聴く」で伺い知ること
ができるが、努力の人であると同時に、天才を感じさせられる。

■■ 佐吉翁の孤独 ■■
カタログや書籍を見ようともせずに、新聞や雑誌の力を借りよう
ともせずに、まして、人に教を乞い、人に智恵を借りて発明を助
けようともしない。数学を習ったこともなければ、物理学を学ん
だこともない。全く自ら考え、自ら案出して、人の仰ぐ一大発明
を完成されたのです。
併も、其の理屈が全て学理に一致し、いかなる数学の先生も、機
械の学者も、翁の発明に対しては、文句を付けることは出来ない。
そうして、翁の発明は全て実地の仕事から割り出して来るので、
そこに学理と多少の食い違いがあるにしても、実際の使用になる
と、翁の発明は却って学理よりも超越した成績を現わす。斯くて
翁は全く実際主義の人であった。(中略)

顧問もなければ、助手も無い。単独孤立、別に特別の研究室を持
つでも無く、参考資料を左右に置くでも無く、自宅の居室が研究
室であり、事務室である。訪れる人もなければ、人を呼ぼうとも
しない。只朝から晩まで幾日も続いて天井の裏を眺め、畳の表を
見詰めて、静かに考案に耽り、斯くの如くにして、その110余の
特許を自分の頭から生み出されたのである。
考える素材を見つけ出し、その対象物を穴のあくほど凝視して、
その本質を知りつくす。近所のお婆さんの手織機を終日、立ちつ
くして見続ける……。佐吉翁のイマジネーションの源泉であり、
且つ、物事を具体的に詰めていく姿勢である。
外国の事情を自分の目で確かめることによって飛躍していく佐吉
翁の進取の気性、視野の広さにも感服せざるをえない。気宇広大
となって外へ外へと拡散していくだけではない。つぎの瞬間には、
対象物から発するイマジネーションを具体的な形に凝縮していく
のである。勝負事でいう大局観と詰めの両方を兼ね備えていたと
いってよいだろう。

佐吉翁は明治43年に欧米視察をした。それより前、トラブルが
あって豊田式織機株式会社を退職し、むしろ逆境にあったと言っ
てよいのだが、アメリカで当時、画期的な発明といわれた「ノー
スロップ式」や「アイデアル式」の自動織機を見て、自分の発明
した自動織機の方がはるかに優れているのを発見して、元気を取
り戻す。外国を歩いて大いなる飛躍台にする佐吉翁の不屈の精神
は素晴らしいものである。

その時、アメリカで自動車も見た。この時、自動織機のつぎには
自動車を手がけたい気特になった。自動織機と自動車とは佐吉翁
のイマジネーションの世界では非常に強く結び付いたと考えられ
る。
佐吉翁の創造物である豊田式自動織機および環状織機は原理的に
自動車と共通するところがあった。自動織機も自動車も動力によ
って自動的に動く機械である。また長さの制限を超越した製織を
行なう環状織機と、軌道を持たないで自由に道路を走る自動車の
無限性とは、その発想点において、また実用の場においても同次
元で考えることのできる機械であった。
佐吉翁の留まるところを知らないイマジネーションは、常に現実
世界において具体的な形で展開してゆき、やがて収嶮されていく
習性をもっていた。
アメリカ滞在から帰った佐吉翁が「これからは自動車だ」と声を
大にして繰り返し叫んだと言われるが、頭の中ではすでに自動織
機の詰めのほかに、新たに、日本での自動車工業の構想大局観み
たいなものが去来し始めていたことであろう。

■■ 日本のオリジナルを求めて ■■
豊田佐吉翁から豊田喜一郎氏へ、さらに現在のトヨタ自工にいた
る過程は、日本の近代工業の発展と成熟の道程であり、そこには
一本の線がはっきりと貫かれている。
貫かれている太い線こそ、日本のオリジナル技術の追求である。
佐吉翁がそもそも自動織機の発明を思い立ったのは明治34年
(1901年)であったといわれる。それが完成されたのは大正15
年(1926年)、この間25年もの歳月が費やされたのである。
その最大の成果は何かといえば、私は佐吉翁の悲願ともいうべき
「日本人の絶対の力のみをもって一大発明を遂げる」ことであり、
それを立派に成就したことではなかったかと思う。
佐吉翁の言行録を紐解くと、工業立国の実現のため、西欧に対抗
するという猛烈な挑戦の姿勢がある。それも「知能による挑戦」
と自ら言っているところに時代を超越した新しさがある。
日本人固有の「知能」を訓練し、研いて、その知能の所産である
日本のオリジナル商品を外国に売って国の富をふやそうというの
が、佐吉翁の人生観、事業観、世界観であったと言ってもよい。