余談4 トヨタ | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.385 ■□■
― ISOマネジメントシステムのテクノファ ―
― つなげるツボ動画版はじめました ―
*** 余談4 トヨタ ***
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「品質不祥事」(You tube「超ISO」)の途中で、余談と称してトヨ
タ創業の頃の話をさせて頂いています。戦前の創業者たちの困難に
もめげず、果敢に挑戦をしていった若きトヨタの物語です。50年も
前に私がトヨタの大野耐一副社長(故人)の講演で直接聴いた話を
当時の講演録からお伝えします。

■■ 豊田紡織に入社  ■■
私は昭和7年(1932年)の春、名古屋高等工業の機械科を出て、
豊田紡織に入社をしました。トヨタの社祖ともいうべき豊田佐吉翁
の創立になる会社でした。
 当時の世相、その2年前にニューヨーク株式の大暴落をきっかけ
に起きた世界的な経済恐慌の余波が日本経済にも根強く残り、不況
で失業者が続出していました。殺伐とした社会情勢のなかで、犬養
木堂首相の暗殺、すなわち5.15事件が起きた年でもありました。
 豊田紡織への入社の動機は、専攻した機械の勉強を生かすことで
したが、なにしろ当時は就職難の世の中、私の父が豊田喜一郎氏の
知合いであった関係上、豊田紡織に入れてもらいました。

 その豊田喜一郎氏と自動車の世界で遭遇できるとは、私自身、予
想もしていなかったのですが、戦中の昭和17年に豊田紡織が解散
したために、翌18年、トヨタ自工へ転籍することとなり、当時、
戦況激しいなかで国産自動車の製造に邁進していた豊田喜一郎氏の
傘下に入るにいたったという経緯です。
私にとって紡績の経験は貴重でありました。自動車であろうが、
紡績であろうが、生産現場における人間と機械の関係は基本的には
共通しています。「物をつくる」ことを根幹となす2次産業に属す
る私企業にとって、原価低減が経営の最大課題であることは、洋の
東西、そして昔も今も変わるところはありません。
 日本の紡績の世界は、自動車の世界よりはるか昔、戦前から、世
界経済の荒波にもまれていました。それこそ、イギリスのランカシ
ャーに追いつき、ヨークシャーを追い越せといった具合に、国際競
争力を強めるための原価低減策がつぎつぎと実現されていました。
 そういったわけで、日本の紡績業は、すでに戦前、世界的な視野
をもって、生産現場の合理化に取り組んでいましたが、日本の自動
車産業は歴史の浅い産業でした。戦前から戦中、豊田喜一郎氏を先
頭とする自動車技術者および自動車経営者たちが、国産自動車の量
産を企てましたが、残念ながら、それは豊田喜一郎氏が心に描いて
いたものではありませんでした。相当量のトラックをつくるまでに
はなりましたが、念願の乗用車の量産にはほど遠い状況でした。

■■ アメリカに追いつけ  ■■
戦後まもなく、当時のトヨタ自工社長の豊田喜一郎氏は「アメリ
カに追いつけ」と私どもを叱咤激励しました。
アメリカに追いつけの願いが現実の可能性に通じていくのは、戦
後の昭和20年代後半からでした。小型乗用車の生産制限解除およ
び自動車の公定価格の廃止はいずれも昭和24年の10月であり、全
面的な配給統制の撤廃、自由販売制への移行は25年4月でした。
しかし、不運なことに、豊田喜一郎氏は労働争議の責任を取って
社長の地位を退かれました。私がここで言いたいのは、私が最初に
入った豊田紡績、つぎに移ったトヨタ自工のいずれもが、当時、規
模こそ小さかったが、内には世界的レベルを感じさせる雰囲気があ
ちこちに見られたという事です。昭和7年に私は豊田紡績へ入社し
ましたが、その2年前に豊田佐吉翁は既に不帰の人となっていまし
た。この会社には、豊田佐吉発明王の偉大な遺風が残っていて、無
意識のうちに世界的なレベルがいかなるものであるかを知り得たよ
うに思います。

■■ 必要な品物が、必要なときに、必要なだけ  ■■
この豊田喜一郎氏が、あるとき、豊田英二氏(現トヨタ自工社長)
にこのようなことを言ったというのです。「自動車事業のような総
合工業では、自動車の組立作業にとって、各部品がジャスト・イン・
タイムにラインの側に集まるのがいちばんよい」と言ったというの
です。
「ジャスト・イン・タイム」とは「必要な品物が、必要なときに、
必要なだけ」ライン・サイドに到着するつくり方で、トヨタ生産方
式の基本思想をなしていること
は、すでに皆様もご承知のとおりだ
と思います。
豊田喜一郎氏の発した「ジャスト・イン・タイム」の一言が、ト
ヨタマンのいく人かに一種の啓示を与えました。私もこの言葉にと
りつかれた1人でした。私はといえば、最初から現在にいたるまで、
とりつかれっ放しであると言って良いと思います。「ジャスト・イ
ン・タイム」なる言葉自体、当時としては目新しかったが、引きつ
けられたのはその中身でした。必要な部品が、必要なときに、必要
な量だけ、生産ラインのすべての工程の脇に同時に到着する光景は、
想像するだけでも楽しいし、刺激的でした。
それは夢のようなところがありましたが、けっして実現不可能と
言い切れないところがありました。実施できそうであるが実際には
やれない、あるいは、非常にむずかしそうだが、けっしてやれない
わけではない。いずれの場合も、人を刺激するチェレンジ溢れる言
葉でした。自動車に素人の私ではありましたが、当時の喜一郎氏の
発言に私は雷に強く打たれたように啓示を受けたのです。
豊田喜一郎氏という、先見性では比類のない人物にめぐりあうこ
とができたのは、幸運と言わざるを得ませんが、私の身近には、い
つも、このような世界的に通用する「普遍の世界」が開かれていた
です。