トヨタ物語22 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.420 ■□■
― ISOマネジメントシステムのテクノファ ―
― つなげるツボ動画版はじめました ―
*** トヨタ物語22 ***
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トヨタ大野耐一氏の50年前の話は、品質不正と対照的なトヨタ
創成期のチャレンジあり、苦労ありの七転び八起き物語ですが、
これを読むと多くの示唆が得られます。品質不正の発覚が続いて
重たい空気の漂う産業界にフレッシュな風を吹き込みたいと思い
トヨタ物語を話させていただいています。以下はすべて大野氏の
話です。

■■ 日本企業の錯覚 ■■
戦後まもなく、国産自動車の産みの親である豊田喜一郎氏の「3
年でアメリカに追いつけ」という叱咤激励は、トヨタの具体的な
企業目標となった。目標がはっきりしていると、人間の行動は活
発になるものである。企業の動きも同様である。私は戦時中の昭
和18年に、紡績から自動車へと職場を変えたが、紡績時代の経
験は非常にプラスとなった。先に触れた「自働化」の発想も、豊
田佐吉翁の自働織機から得られたものであったし、自動車の生産
現場にきてからも、自動車の素人ではあったが、紡績との比較に
おいて、自動車の生産現場の長所、短所が目についた。
昭和24、5年といえば、戦後の復興期であり、日本の自動車産業
の前途もまことに険しい時期であった。ちなみに、昭和24年の
国産車の生産台数をみると、トラック25,622台、乗用車は1,008
台にすぎなかった。ほかに占領軍による軍用払下げトラック44,116
台が記録されているが、いずれにしろ、国内生産は微々たるもの
であった。
それにもかかわらず、トヨタの生産現場には、何かやってやろうと
いう意気込みが秘められているようであった。豊田喜一郎社長の
「アメリカに追いつけ」の言葉が、そのような雰囲気をかもし出し
ていたのかもしれない。昭和22年、いまの豊田市の本社工場(当
時は挙母工場)の製造第2機械工場主任であった私が思い立ったこ
とは、アメリカに追いつくために、1人の作業者に1台の機械では
なく、多数台かつ多工程の機械を担当してもらおう、そのためには
何をやればよいかを考えた。機械工場に流れをつくることが最初に
やるべきことであった。
アメリカの機械工場がそうだし、また大部分の日本の会社でもそう
だが、機械工場というと、旋盤工は旋盤しか扱わない。工場のレイ
アウトも、旋盤が50台も100台もまとまって配置してある場合が
少なくない。旋盤工程が終わったら、まとめてつぎの穴あけ工程に
もっていく。それが済んだら、フライス工程へ持っていくというよ
うに、まとめてつくる。これが機械工場の流れ作業であると、今も
って考えられている。
アメリカの場合は、職能別の組合があって、1つの会社にたくさん
の組合が入っている。したがって、旋盤工は旋盤しかやらない。穴
あけ工程というと、ボール盤のところへ持っていかなければならな
い。単能工であるから、旋盤工程でたまたま溶接作業が必要になっ
ても、そこではできない。溶接工程へ持っていって溶接をやるしか
ない。したがって、機械の数も多いし、人間の数も多い。そのよう
な条件のなかでコスト・ダウンをしなければならないアメリカ企業
にとっては、量産によってしかコスト・ダウンできないことは明ら
かである。
量をつくることによって、1台当りの人件費を安くする。償却負担
を軽くするということになる。そうなると、どうしても大型の高性
能・高速度の機械を必要とする。
このような生産システムは、計画的量産システムであり、すべての
工程がたくさんつくり、まとめてつぎの工程へ送る生産方法をとる
ことになる。量とスピードを追求するこのやり方には、とうぜん、
ムダが多い。そのアメリカ式を追い求めて、昭和48年秋のオイル・
ショックを受けるまで、日本の企業はあたかもそれが日本の風土に
合致したかの錯覚をしてきたことに気づかなかったのである

■■ 生産の流れを作る ■■
旋盤は旋盤工、溶接は溶接工というように、作業員が固定化してし
まっている機械工場の保守性を打破するのは、けっして容易ではな
かったが、アメリカでは不可能であっても、日本ではやる気があれ
ばできたのである。現に、トヨタ生産方式の始まりも、この古い体
制への私自身の挑戦から始まったのであった。
 昭和25年6月の朝鮮戦争勃発をきっかけとして、日本の産業界
は特需景気なるものによって活気を取りもどした。自動車産業もそ
の波に乗って伸びたことは確かである。この年は、トヨタ自工にと
って多事多難の年であった。4月から6月にかけて人員整理にとも
なう労働争議があり、その責任を負って、豊田喜一郎社長は退任し
た。そのあと、朝鮮戦争勃発となったのであった。
それにしても、特需景気とはいうものの、量産にはほど遠かった。
なにしろ種類が多い。多種少量生産であることに変わりはなかった。
私は、当時の拳母工場の機械工場長として、機械設備の配置を変え
て、従来のたくさんかためて加工し、つぎの工程へ送ってやるやり
方から、加工工程順に異なった機械を配列して1個1個、加工して
つくりあげていく、いわば生産の流れをつくり出す、ささやかな試
みを始めていた。
昭和22年には機械を「ニの字型」または「L字型」に並べて、1人
の作業者の2台持ちを試み、24から25年にかけては、「コの字型」、
「ロの字型」として、工程順の3台持ち、4台持ちへの挑戦をして
いた。生産現場の風当りは、とうぜん強かった。仕事の量や作業時
間が増大するわけではないが、当時の熟練工は良くも悪くも職人気
質おう盛な連中であったから、機械を配置換えして、従来の1台持
ちから工程順の多数台持ちにし、しかも旋盤からフライス盤、ボー
ル盤など、多能工としての仕事が要求されることになるのだから、
抵抗も多かったはずである。また実際にやってみると、いろいろな
問題がわかってきた。たとえば機械が加工完了で止まるようになっ
ていないとか、調整の要素が多いため熟練していないと扱いが困難
であるというようなことである。こういう問題がしだいにはっきり
してきて、私につぎに進むべき方向を教えてくれた。
 私も若かったから、やる気おう盛であったが、短期間に急激な変
化を押しつけるのは得策でないと考え、あせらずにじっくりいく気
持であった。