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1.はじめに
本書は、法政大学教授の田中研之輔氏と、三田国際学園中学校教頭の内田雅和氏による共著である。
現代社会は急激な変化の只中にある。環境変化や産業・経済構造の変容に加え、雇用の多様化・流動化が進み、さらに新型コロナウイルス感染症の拡大によって、私たちはこれまでの働き方やこれからの生き方を改めて問い直すことになった。こうした歴史的な転換期において、文部科学省は、一人ひとりが主体的にキャリアを形成していくことのできる次世代の育成を求めている。その実現に向けた重要な手段として位置付けられているのが、キャリア教育や職場体験、インターンシップである。
しかし、現在のキャリア教育には大きな歪みが存在すると筆者らは指摘する。その歪みとは、「キャリア=職業経験」と限定的に捉えることで、キャリア教育が勤労観や職業観の形成にのみ焦点を当てて理解されている点である。本来、キャリア教育において重視すべきことは、職業に関する知識の習得だけではない。職場体験やインターンシップを通じて、生徒一人ひとりが自らの人生や将来の生き方について考え、そのヒントを得る機会とすることである。
本書では、内田雅和氏が勤務する三田国際学園を対象に、キャリア・エスノグラフィーの手法を用いてキャリア教育の実践を明らかにしている。エスノグラフィーとは「民族誌」と訳される研究手法であり、研究者が対象となる現場に深く入り込み、その集団の実態や特性を観察・記録し、言語化して描き出す質的調査の一つである。その起源は文化人類学にある。
本書の主な分析素材は、筆者が勤務する三田国際学園におけるフィールドワークおよびインタビュー調査である。調査期間は2014年から2021年までの7年間に及び、長期的な視点から学校におけるキャリア教育の実践とその成果を検証している。
2.キャリア境域に関する視座と手法
1)施策としてのキャリア教育
急激な社会変化の中で、生徒たちは「自らの将来」や「人生の捉え方」に戸惑いを抱えている。キャリア教育において育むべきものは、「キャリア」を広義に捉え、生涯にわたってさまざまな役割を果たしながら、自分らしい生き方を見つけていく力である。
しかしながら、現状では「キャリア」を職業的自立に向けた狭義の概念として捉え、「職業指導」を中心とした教育にとどまっている中学校や高等学校も少なくない。
「キャリア教育」という用語が初めて登場したのは、1999年の中央教育審議会答申である。その後、2000年以降、小・中・高等学校において急速に普及したキャリア教育は、文部科学省によるトップダウン型の施策として、若年雇用問題への対策を背景にスタートした。その当初は、職業理解を深めることや将来のキャリアプランを形成することに重点が置かれていた。
しかし、2011年の中央教育審議会答申では、キャリア教育は仕事や職業に関する教育だけを指すものではなく、学校教育全体を通じて取り組むべき教育であるという方向へと方針転換が図られた。
2)キャリア教育の位置付け
キャリア教育が浸透する以前の学校教育に求められていたのは、工業社会に適応できる人材の育成であった。第二次世界大戦後の日本では、製造業を支えるブルーカラーや、国の発展を担うホワイトカラーの育成が教育の重要な役割とされてきた。
しかし、その後の社会は大きく変化した。平成の30年間で日本のGDPの世界シェアは大きく低下し、国際競争力ランキングも世界トップレベルから30位前後まで下落するなど、経済環境は大きく変容している。
21世紀は、画一的な価値観や決められたレールの上を皆が同じように進む時代ではない。経済の成熟化による成長率の低下、サービス産業化やホワイトカラー化、さらには少子高齢化などの構造変化によって、工業社会からポスト工業社会への移行が進んでいる。こうした社会では、多様化する消費者ニーズに応えるため、知識や創造性を活用して新たな価値を生み出す力が求められる。そのため、唯一の正解を覚える教育ではなく、自ら考え、多様な答えを導き出す教育が必要となっている。
その先進事例として挙げられるのがフィンランドである。1990年代の深刻な経済不況を契機に、1994年から大胆な教育改革を実施し、従来の一斉授業中心の教育からテーマ学習や少人数教育へと転換した。生徒はグループで課題について調査・討論・発表を行い、知識を応用して課題を解決する能力を育成している。
また、OECDの「PISA2018」調査によれば、学校にキャリアカウンセラーが配置または定期的に訪問している15歳の生徒の割合は、ノルウェー98.5%、スウェーデン98.4%、フィンランド97.0%、アメリカ82.3%、シンガポール91.8%など非常に高い水準にある。一方、日本は4.4%にとどまり、多くの学校では教員が通常業務と並行してキャリアガイダンスを担当しているのが現状である。本来、キャリア教育には専門的な知識や支援技法が求められるが、その体制整備は十分とは言えない。
一方で、リクルート進学総研の調査では、「キャリア教育は生徒に役立っている」と回答した教員が88%に達しており、多くの教育現場でその有効性が実感されていることが示されている。社会環境が急速に変化する現在、自らの人生や働き方を主体的に考え、多様な選択肢の中から進路を切り拓く力を育むキャリア教育の重要性は、今後さらに高まっていくと考えられる。
3)企業と連携したキャリア教育
企業をはじめとする社会と学校が連携した教育の必要性は、2000年頃に「総合的な学習の時間」が導入されて以来、繰り返し指摘されてきた。現在、多くの学校で職業人講話が実施されているものの、講師が中学生や高校生に分かりやすく伝えるための十分な準備を行っているとは限らない。また、企業と教育現場の間には、キャリア教育に対する目的や認識の違いも存在しており、相互理解の不足が日本のキャリア教育における課題の一つとなっている。
職業人講話をより有意義なものにするためには、キャリアを単なる職業選択や就職活動といった「狭義のキャリア」として捉えるのではなく、人生全体を見据えた「広義のキャリア」として理解する視点が重要である。そのためには、学校と企業がキャリア教育の目的を共有し、互いの理解を深めながら連携を進めていく必要がある。
広義のキャリアとは、仕事だけでなく、家庭生活や地域活動、学び、人間関係など、人生におけるさまざまな経験やライフイベントを含めた生き方全体を指す考え方である。田中研之輔教授は、「キャリアとは、これまで生きてきた足跡(結果)であり、生き方を客観的・相対的に分析すること(現在)であり、これからの生き方を構想する羅針盤(未来)である」と定義している。
この考え方に立てば、キャリアとは単なる結果ではなく、経験を通じて能力や価値観を形成していく「過程」そのものである。過去の経験を振り返り、現在の自分を理解し、未来を主体的に描くことで、生徒は自らの人生を「自分ごと」として捉えられるようになる。
また、結果だけにとらわれず、変化に柔軟に対応しながら主体的にキャリアを形成していく視点も重要である。その代表的な考え方が、ダグラス・ホール教授が提唱した「プロティアン・キャリア」である。プロティアン・キャリアとは、個人が価値観や人生の目的を軸に、自ら環境の変化に適応しながらキャリアを築いていく考え方であり、組織への依存ではなく自己主導によるキャリア形成を重視する。
ホールは、社会や雇用環境の変化により、人と組織との心理的契約が従来の終身雇用を前提とした長期的な関係から、互いの貢献と成果を重視する柔軟な関係へと変化していると指摘した。そのため、これからのキャリア教育では、組織に依存するのではなく、自らの価値観に基づいて心理的成功を追求する自己志向型のキャリア形成を支援することが求められる。
さらに、生徒がキャリアについて主体的に考える機会は、学校での授業だけに限定されるものではない。日常生活の中で、自分の過去・現在・未来について振り返り、自分自身の人生と向き合う時間を持つことが重要である。過去の経験が現在の自分を形づくり、その延長線上に未来があるという連続性を実感することで、生徒のアイデンティティはより確かなものとなり、自律的なキャリア形成へとつながっていくのである。
4)学校教育現場におけるキャリア教育の現状
文部科学省は「キャリア教育」の推進を重要な教育施策として位置付けているが、教育現場における理解や実践の状況は学校によって大きく異なる。各学校はそれぞれの実情に応じてキャリア教育に取り組んでいるものの、若年層の雇用問題への対応を背景として始まった文部科学省の理念と、現場での実践との間には依然として乖離が見られる。
日本のキャリア教育は、当初の職業観・勤労観の育成を中心とした「ワークキャリア」重視の考え方から、人生全体を視野に入れた「ライフキャリア」重視へと発展してきた。しかし、こうした政策レベルでの変化が、必ずしも中学校や高等学校の現場に十分浸透しているとは言えない。
キャリア教育が本格的に導入された2000年代初頭、多くの学校では職場体験やインターンシップ、企業訪問などを中心とした職業理解活動が実施された。その結果、「キャリア教育とは職業教育である」という認識が定着し、この考え方が現在でも教育現場に少なからず残っている。いわば、キャリア教育を職業選択支援に限定して捉える「負の遺産」ともいえる状況が存在しているのである。
しかし、現代社会は大きく変化している。経済の成熟化による成長率の低下、産業構造のサービス化・知識集約化、少子高齢化の進展など、日本社会は大きな転換期を迎えている。もはや、誰もが同じ価値観やキャリアモデルに沿って生きる時代ではない。こうした社会においては、自らの人生を主体的に設計し、多様な環境変化に適応しながら成長していく力が求められる。
そのため、キャリア教育は単なる職業理解や進路指導にとどまらず、自分らしい生き方や働き方を考え、人生全体を設計する力を育む教育として位置付けられるべきである。社会の変化に対応できる人材を育成するためにも、キャリア教育の果たす役割はますます重要になっている。
本書では、こうしたライフキャリアの視点に立ったキャリア教育を実践している学校法人三田国際学園に着目する。同学園における多様なキャリア教育の取り組みを分析し、その理念がどのように教育現場へ浸透し、生徒や教職員にどのような影響を与えているのかを、質的調査を通じて明らかにしていく。
5)対象と方法 三田国際学園のキャアエスノグラフィー
本書は、三田国際学園のキャリア教育現場に深く入り込むために、キャリアエスノグラフィーの手法を使用して三田国際学園の手法を分析していく。
キャリア導入から浸透までのプロセスを分析するために3つの調査を行った。
一点目は、教員の学級通信、学年通信の分析である。
二点目は、学校教員・保護者・生徒のインタビュー調査である。
三点目は、三田国際学園でのフィールドワークである。キャリア教育の現状を把握するために2015年より2021年まで三田国際学園の現状を観察した。
これら3つの質的データを総合的に分析し、教師として勤務する場の組織特性やキャリア教育の現状をできる限り客観的に把握し、導入から浸透までの変化を分析していく。
6)対象と方法―三田国際学園におけるキャリアエスノグラフィー
本書では、三田国際学園におけるキャリア教育の実践を深く理解するため、キャリアエスノグラフィーの手法を用いて分析を行った。キャリア教育の導入から定着・浸透に至るプロセスを明らかにすることを目的として、以下の3つの調査を実施した。
第一に、教員が作成した学級通信および学年通信の内容分析である。これらの記録を通して、教員がキャリア教育をどのように捉え、生徒へ発信してきたのか、その変遷を検討した。
第二に、学校教員、保護者、生徒を対象としたインタビューを実施した。キャリア教育に対する認識や評価、教育活動の変化について、それぞれの立場から意見を収集した。
第三に、三田国際学園におけるフィールドワークである。2015年から2021年までの約6年間、学校現場に継続的に観察を行い、キャリア教育の実践過程や学校組織の変化を記録した。
これら3種類の質的データを総合的に分析することで、教員が勤務する学校組織の特性やキャリア教育の実践状況を可能な限り客観的に把握し、キャリア教育が学校現場へ導入され、組織文化として浸透していく過程を明らかにしていく。
出典:
田中研之輔 (著), 内田雅和(著) (2021) 「プロティアン教育: 三田国際学園のキャリアエスノグラフィー」 株式会社キャリアナレッジ
(つづく)吉末直樹
