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私の英国赴任のきっかけ(その1)

「私とマネジメントシステムそしてISO」について25回話をしてきましたが、今までの話と関係はありますが、昨今の政治・経済情勢と似ていることから、一旦「私とマネジメントシステムそしてISO」から離れ、今回から私が英国工場に赴任するきっかけについて、現在の保護貿易、貿易戦争、英国のEU離脱などにも触れた話に転じたいと思います。ひとしきり話し終えたら、また「私とマネジメントシステムそしてISO」に戻りたいと思います。

第1回 ECアンチダンピング関税とエプソン海外進出

2017年、ドナルド・トランプが米国大統領に就任して以来、2019年現在まで自由貿易の旗印を掲げていた米国が一転して、アメリカファーストの掛け声で保護貿易に舵を切りました。以来、対中国に対して厳しい姿勢で米中貿易交渉を行いますが、両者の合意はなかなか得られず、2019年9月現在、米中は互いの輸入品に対し巨額の関税を課す報復合戦を繰り広げ、世界経済に不安の影を落としています。
このような保護貿易の動きは、過去に日本と欧州の間にもあり、これが私の英国への赴任のきっかけとなりました。1970年代半ばから1990年代前半にかけての時期、日本とECとの貿易問題は深刻でした。1970年に対外通商交渉権限が欧州委員会(EC)に委譲され、日本とECとの間で、包括的な貿易協定締結交渉が始まりました。我が国は、対日差別措置の撤廃をEC側に要求しましたが、認められず交渉は中断しました。1970年代半ば以降、我が国の輸出が急増したこともあって、欧州側は、日本の輸出を非難し、国内産業の保護を口実に、貿易制限措置やアンチダンピング税を課税するようになりました。このアンチダンピング税というのは、輸出国の企業が行った安値売りのダンピング行為を輸入国の国家が阻止するための税金です。

アンチダンピング税の協定は、1960年代にケネディ・ラウンド交渉で合意され、1970年代に行われた東京ラウンド交渉で、新しい細則を作り、よりアンチダンピング税を掛けやすくしました。この国際的なルールの緩和を受けて、アメリカを初め欧州などでは、アンチダンピング税をかけるための国内法を整備し、アンチダンピング税をかける件数は飛躍的に増えました。こうした状況の中で日本の企業がとった対応は3つに分かれました。1つ目は、アンチダンピング税を甘んじて受けて、課税対象期間(現在は5年間)が終わるまで税金を払って取引を続けるというものです。2つ目は、相手の国に工場を建設し、そこで製造・販売を行おうというものです。3つ目は、輸入国の取ったアンチダンピング税に対して、違法ではないかということで訴訟に持っていくという対応の仕方です。私が勤務していたセイコーエプソンは、2つ目の対応を取りました。

セイコーエプソンで扱っていたプリンターは、1984年に欧州側からシリアル・インパクト・ドット・マトリックスのプリンターとデイジー・ホイールのプリンターの2機種がダンピングとして提訴されました。提訴前にすでに日本事務機械工業会、日本電子工業振興協会、日本機械輸出組合の3団体による「プリンター輸出問題懇談会」が設けられていましたので、直ちに対策検討に取り掛かることができました。しかし関税賦課は免れることはできませんでした。こうしたことが影響してセイコーエプソンも英国に工場を立ち上げることになったのです。

1985年には会社から欧州に工場を建てるとしたらどこの国が良いかを調査するチームが本社に作られました。セイコーエプソンは、当時既にアメリカのポートランド(オレゴン州)にプリンター製造拠点を立ち上げていました。
このプロジェクトを先導したのは、故服部一郎社長(享年55歳)でした。服部一郎氏は昭和7年、服部時計店第3代社長服部正次の男兄弟3人の長男として東京に生まれました。服部時計店の創業者の服部金太郎の孫として、「銀のスプーンを口にくわえて生まれてきた」と言われました。戦争で疎開していた長野県諏訪清陵高等学校から学習院高等科を経て、東京大学法学部卒業後、チューリッヒ大学、イェール大学へ留学しました。1980年にセイコーエプソン代表取締役社長に就任すると、積極的に事業を展開し、貿易摩擦の将来をリスクと捉え、工場の海外展開を主導したのが、エプソンポートランドの工場でした。もちろん英国エプソンテルフォードの設立を主導したのも服部社長でした。服部一郎氏は、もともと海外志向が強く、前任の第二精工舎社長の時代、1976年には早くも第二精工舎の工場をシンガポールへ進出させるなどして、事業の国際化と多角化に手腕を発揮していました。

服部社長との思い出はそれほどあるわけではありませんが、テルフォード英国工場の建築について指導を受けたこと、テルフォードへ家族で来られた時の思い出(一人娘の聡子さんが素晴らしい女性だった)とか、スイスチューリッヒから自家用ジェットでヒースローまでご一緒させていただいたこととか、サボイホテルでのエプソンテルフォード開設の記者会見の様子とかが思い出されます。

印象に残っている話を紹介します。1986年当時、自家用飛行機は日頃の管理から、メンテナンス、操縦まで一切を専門会社に委託するのが普通でしたが、当時服部社長は10人乗りの自家用ジェット飛行機をお持ちになったうえ、操縦免許も保有されご自身で操縦される時もあったそうです。また、チューリッヒからヒースローへのフライトのこぼれ話では、服部社長の自家用ジェットがヒースロー空港の第4ターミナルに着く予定になっていた際、エプソンの英国社員が車でタラップの近くまで迎えに来る手筈になっていたのですが待てども待てどもそれらしき車は一向に現れません。同乗の秘書が慌てて英国社員に連絡を取ろうとしますが、当時は今のように携帯電話がないので右往左往しました。「きっとターミナルを間違えているのでしょう。タクシーを手配するのでそれで移動されてはどうでしょうか」と服部社長に進言したところ社長は「このまま居よう、山で遭難したら決して動かないことが原則ですよ」と落ち着いて言われました。20分くらい待ったでしょうか、ほどなく迎えの車が来ました。山が好きだった服部社長ならではの「思慮深い判断」を小さな出来事ではありますが垣間見た気がしました。

(次号へつづく)