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私とマネジメントシステムそしてISO(その4)

第四回

 「私の品質管理そしてISOとの関わり」の第4回目です。私は1986年にイギリスのエプソンプリンター工場に工場長として赴任しましたが、1970年代には時計部品製造にかかわっていました。このころSEIKOが世界で大活躍する出来事が起きます。この出来事を通じて我々はルールとは何か、ルールは変えたり無くしたりすることができるものである、ということを学びました。

4.3 ある出来事の思い出

 腕時計の時代に強く思い出として残っているのは、スイス・ニューシャテル天文台主催の時計競技会のことです。当時、この時計精度を競う大会は毎年行なわれていました。しかし、ある年よりセイコーの腕時計が数年に渡り金賞を獲得し続ける快挙をなしたことから、この競技会はスイス側の一方的な判断で中止になるというちょっとした事件が起こりました。ニューシャテル天文台は、1858年に創立された古い歴史を持った天文台です。現在は、精密な天文観測で原子時計を較正しながら、国際標準電波を発信している重要な天文台の一つで、イギリスのグリニッチ天文台と同格とみられる格式の高い天文台です。ニューシャテル天文台は、創立当初から時計の検定を行っており、1860年には大航海時代に貴重であった船舶用の時計クロノメータを測定したという記録が残っています。この天文台が行う国際クロノメータコンクールは、時計業界では有名で且つ権威のあるものでした。このコンクールは、時計ジャンルによって次の5クラスに分かれていました。

① マリン クロノメータ(容積1000 cc以内)
② 携帯クロノメータ(同5000 cc以内)
③ ボードクロノメータ(135 cc以内)
④ 懐中クロノメータ(器械直径50㎜・厚み10㎜以内)
⑤ 腕クロノメータ(器械直径30㎜・厚み5.3㎜以内)

 SEIKO時計は、1963年にマリンクロノメータで初めて入賞を果たしました。このコンクールに入賞したのは、日本は勿論のこと、スイス以外の諸外国メーカーとしては、初めてという画期的な出来事でした。以来、毎年チャレンジを続け、このコンクールが長い間スイスのごく限られた数社の時計メーカーの独壇場であったところに風穴を開けました。ニューシャテル天文台は、コンクールのルールをいろいろ変え何とかSEIKOを振り落とそうとしましたが、SEIKO時計は新しいルールにその都度うまく対応し、最後にはSEIKO時計の独壇場になるという大変名誉なことが起きたのです。SEIKO時計は、腕クロノメータ(機械直径30㎜、厚み5.3㎜以内)でも入賞を繰り返し、遂に第一位を得、それを数年に亘り繰り返しました。1970年になると、スイスのニューシャテル天文台は、SEIKOの栄誉を讃える為にコンクールをしているのか、という不評がスイス内で起こり、遂にコンクールを終焉させるという結果を見るに至りました。

 この出来事は2つの教訓を我々に残してくれました。一つは、TQCを徹底的に運用すればこのような素晴らしいことに繋がるということです。SEIKO 時計の部品を作っている我々に大きな自信と品質管理の重要性を植え付けてくれました。もう一つは、ルールは変えられる、最後にはルールそのものが無くなることもあり得るということです。

4.4 服部時計店とSEIKO Group

 ここまで私の職歴を振り返ってみて、改めていろいろな会社名が登場することに気が付きました。私は1968年に東北大学機械工学科を卒業して諏訪精工舎に入社しました。実家が長野県諏訪市にあり長男でもあったことから、親のすすめで地元に就職したということになります。

 諏訪精工舎は第二次世界大戦中に服部時計店(株)の工場が地方へ疎開したものの一つでした。明治時代に服部金太郎によって創業された服部時計店には、東京亀戸に精工舎(株)という子会社工場がありましたが、諏訪、桐生、富山、仙台などに戦況の悪さから疎開を余儀なくされました。戦後、桐生、富山などの工場は閉鎖されましたが、諏訪工場は東洋のスイスと言われ精密工業には極めて適した土地柄から諏訪精工舎として残されました。有名な銀座4丁目にあるSEIKO時計台は服部金太郎が明治時代に建てたものです。諏訪の疎開工場が継続して操業を続ける歴史には、東京から多くの技術者が信州に移り住み、当時の田舎に都会の文化を広めていったことは容易に想像できます。その後諏訪では、男性用SEIKO Watchを、亀戸では女性用SEIKO Watchを製造するという役割分担も明確にされました。服部時計店は両工場で作った時計をSEIKO Brandとして販売していきました。諏訪精工舎は成長するにつれてJR中央本線に沿った地(富士見、茅野、上諏訪、下諏訪、岡谷、塩尻、松本、豊科など)に子会社を次から次と作りましたが、その一つが松本に作られた信州精器(株)という会社でした。その後、信州精器では時計以外の製品であるプリンターを作ることになり、時計とは異なる製品にふさわしいブランドが欲しいということからEPSONブランドが誕生しますが、それはこの時代から10数年後の話になります。EPSONブランドを持つに至った信州精器は、その後本社諏訪精工舎に匹敵する規模にまで成長し、1980年代になると新しくセイコーエプソン(株)が両社の合併によって生まれることになるのです。

 1970~80年代の日本の高度成長時代にあっては、子会社設立、吸収合併、対等合併のような経営手段を通じての組織の拡大は、セイコーグループだけでなく、日本中の企業で日常茶飯事に行われていました。セイコーグループでいうと、まったく同様な展開が亀戸の精工舎でも行われ、セイコー電子工業、セイコーインスツルメント、習志野工業などの会社が千葉県を中心に10拠点くらい次から次と操業を開始し、SEIKOグループ成長の源となっていきました。日本全体では、このような成長ストーリが上場企業5,000件くらいで展開されていったと思われますから、当時の日本経済の発展は今の中国の経済発展の前例として語り継がれていく規模であったと思われます。

5. 高度成長期における品質管理

 1970~80年代の日本の高度成長を支えたものがTQC(日本式品質管理)であった、とは既に説明しましたが、TQCは日本に独特な風土の中で生まれ育ったものです。したがって、一時的にTQCの効用が落ちたとしても、その風土、伝統を絶やさず守っていけば、新しい日本の展望は必ず開けてくると思います。

日本に独特な風土とは次のようなものをいいます。

① 全員で力を合わせる(四季折々のピーク時には村総出で事に当たらなければならなかった農耕民族の伝統による)
② 全国民があるレベル以上の均質な教育を受けている(二宮尊徳、江戸時代の寺小屋以来の伝統による)
③ 日本独自の雇用制度がある(でっち奉公等に代表される日本的制度、終身雇用制度はなくなりつつあるが・・・)
④ あうんの呼吸で仕事ができる(古代から同一民族としてのコミュニケーションのよさによる)
⑤ ねばり強い(自然災害多発ににもかかわらず、再興してきた歴史、伝統による)
⑥ 職業的道徳感がある(武士道―義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義―、茶道、花道等一つの道を突き詰める伝統による)
⑦ 柔軟性がある(原理主義の一神教とは異なり、多神教である、即ち自然を神とした八百万の神の伝統による)
⑧ 高密度、高効率である(狭隘な日本列島に億を超える国民が効率よく住んでいることによる)

 朝香鐡一・石川馨編「品質保証ガイドブック」(1974年、日科技連出版)には次のように述べられ個所が出てきます。
「新しい品質管理とは経営の一つの思想革命である。新しい品質管理を全社的に実行すれば、企業の体質改善ができる。産業が進歩し、文化のレベルがあがれば、品質管理はますます重要になってくる。製品やサービスを売っているかぎり、その品質管理は永久に行うべきものである。品質管理の基本原則は、どんな産業でも、第1次、第3次産業でも全く同じように適用できる。」
TQCの特徴は、第7回の品質管理シンポジューム(1968年)において、次の6項目に整理されています。

① 全員参加の品質管理
② 品質管理の教育・訓練
③ QCサークル活動
④ QC診断
⑤ 統計的方法の活用
⑥ 国民的品質管理推進活動